このページは新しいウィンドウで開いているはずですので、[欄外コラム] 以外のページに移る時には(基本的に)このウィンドウを閉じてください
[欄外コラム] の前ページへ 次ページへ

[欄外コラム(12)] 最近出版された加瀬邦彦著「ビートルズのおかげです」を読んで
[欄外コラム] のINDEXへ
加瀬邦彦著「ビートルズのおかげです」 加瀬邦彦氏の著書「ビートルズのおかげです/ザ・ワイルド・ワンズ風雲録」が2001年11月20日付で出版された(実際には11月上旬までには書店に並んでいたようだが)。
加瀬氏は日本のエレキ、ポップス、ロック史の初期における最重要人物の1人であるが、加山雄三との出会いやブルー・ジーンズ等のエレキ・バンドでの活動、そしてザ・ワイルド・ワンズ結成と、その当時の本人しか知り得ない話が満載。 皆さん、さっそく買って読みましょう! 竅iえい)出版社刊。

ただし、価格の1400円は安いと思うが、レコードに関する資料部分がまったく無いというのは、よくあるタレント本等と同じじゃないですか。 音楽家の本としては、実に残念であり、淋しい。 ほんの数ページのリストでもいいから、欲しかった。
何故なら、加瀬氏が創造した音楽は(すべての音楽がそうであるように)実際に聴かれなくては意味がないと思うのですが、どのように聴いたらいいのかということ以前に、どんなレコード(CDでも)があるのかということすら、一般的には意外に把握できていないものなのですから…。

さて、それはともかく、様々なビッグ・ネームが、さもありなんというキャラクターで続々登場する本書は、実に面白い。
が、筆者にとって最も重要なのは、やはりタイガース絡みの記述。 この [欄外コラム] で以前から取り上げている いくつかの疑問が解決するのではないかという期待を持って読んだのですが、以下、それについて。(なお、引用部分は基本的に原文のまま)
まず最初に、「<僕のマリー>でタイガースがポリドール・レコードからデビューするまでの数か月間、内田(裕也)氏はタイガースのリーダーとして、ボーカルでステージを一緒にやっていた。 その後、渡辺プロとどのような話があってタイガースから手を引いたのか、僕には分からない」 という記述は、実に興味深い。

これだと、グループ・サウンズ以前の形態である「ソロ・シンガー+バック・バンド」という編成を内田(&渡辺プロ)は考えていたようなのだが、もし「内田裕也&ザ・タイガース」という形で世に出たとすれば、ブルー・コメッツやスパイダースに次ぐ程度のグループにはなったにしても、あの爆発的人気を持ち得たタイガースには絶対にならなかったと言える。
何故ならば、刻々と移り変わるポピュラー音楽の次なるトレンドは、決して以前のメイン・ストリームにいた人の中からは生まれないことを歴史が証明しているのだ。 ロカビリー時代のスター歌手がGSを結成して成功することはなく、逆に最初にGSのトップ・グループになったブルー・コメッツやスパイダースは、ロカビリー時代には陽の当たらないバック・バンドだった…。

そして、そうした苦節何年の音楽業界経験者から成っていたグループに続くGSのニュー・スターは、下積みの経験がほとんど無い、若い(何と)高校生層から生まれることになった。
それこそはファンが(無意識的に)求めたことでもあったに違いないのだが、正にその時と場所に必然のようにタイガースがいたのだ。
ベンチャーズに天啓を受け、衝動に突き動かされて仲間同士で結成、そしてビートルズやローリング・ストーンズに多大に影響されたバンド。 それまでの業界の匂いがない、新鮮な、今どきの、長髪の似合う若者達が自ら生み出すエレキ・ビート・サウンドとヴォーカルの美少年。

もちろん、それはアマチュア〜セミ・プロ時代から変わらないタイガースのメンバー編成だったのだが、この内田裕也の一件を考えてみると、むしろ それは画期的なデビューだったと思えて来る。 素人に毛の生えたようなバンドを、そのまま世に出すとは何を考えてるんだか…というのが、当時の業界の常識的な反応だったのかもしれない。
(しかし、最近どこかの会社社長が「皆が無理だと口を揃えることが実現すれば、成果は莫大なものになる」って言っていたけれど、それこそがムーヴメントの真髄なのかも)

各プロダクションもファニーズ時代のタイガースを見て、直ぐにスカウトしようとした訳では無かったし、タイガースと契約した渡辺プロも当初は大きな期待をしていなかった模様ということから考えると、デビューに当たっては、まず経験のある歌手と組ませて売り出し、その様子を見るというのが本来の方針だったとしても うなずける(あらためて考えてみれば、かの「阪神タイガース」があるのに「ザ・タイガース」と名付けちゃうなんて、リキ入ってない証拠じゃありません?)。

だが、すでにロカビリー時代に名の売れていた内田裕也が加わっていたとしたら、新しいファンは注目しなかったはず。 いや、むしろ積極的に背を向けたのではないだろうか。
しかし渡辺プロは、ファンの欲求(まだ具体的な形になってはいなかったが)を読み違えなかった。 タイガースは、もともとのタイガースのまま、世に出た。
このページの最初に戻るさて、そうした、いわば冒険が渡辺プロ内で実現したのには、実は加瀬邦彦が結成して1966年11月(タイガースがレコード・デビューする4か月前)に「想い出の渚」でレコード・デビューしていたワイルド・ワンズの成功が前例としてあったからではないだろうか、と筆者には思われる。

すでに加瀬は業界の経験も豊富だったが、それまで一般的だった「加瀬邦彦&グループ」という名前はもちろん(だって、ビートルズは「ジョン・レノン&ビートルズ」じゃないもんね)、リーダーがメンバーを上下関係で牽引するというようなバンドを作る気は毛頭無かったようだ。
加瀬がワイルド・ワンズを結成する時のメンバー候補としての条件は「全員ボーカルとコーラスができる」「まだプロの世界に毒されていないフレッシュな人」「僕より若い人。できれば十代」等だったが、これはそのままタイガースにも当てはまる。
さらには音楽的な要素と並列して、「アイビー・ファッションが似合い、清潔感のある人」「人に好感を持たせる人間性」「山より海が好きな人」といった条件も挙げられているのが、大変に興味深い。

おそらく、それまでのバンドはメンバーの趣味や人間性等はほとんど考慮されず、仕事をこなすための演奏の腕前こそが最優先だったのだろう。 メンバー・チェンジは日常茶飯事であり、むしろ大事なのはバンド名で、それこそは(名門バンド、という呼び方もあったように)後々まで存続するが、所属するメンバーは二の次というのが一般的だったと思える。
逆にミュージシャン側にしても、各バンドを渡り歩くことで腕を磨くという一匹狼的な意識が強かったはずだ(ブルー・コメッツもスパイダースも、そうした変遷を経てGS期のメンバーに固定されたのだが、GS時代になると、バンド名とそれを構成するメンバーは不可分のものと認識されることになる)。
とにかく、この時点で加瀬がバンドの(ヴィジュアル面も含む)自然な統一感をこそ重要視していたことに注目したい。

1965年8月20日、スパイダース「フリフリ」の3か月後、ブルコメ「青い瞳」の半年前にリリースされた加瀬邦彦作曲のヴォーカル入りオリジナル曲「ユア・ベイビー」、作詩は安井かずみ ブルー・ジーンズの「ユア・ベイビー」に次ぐシングルはインストの「涙のギター」、すぎやまこういち作曲、B面「雨の想い出」は加瀬作曲だが、レコーディングの15時間前に依頼された、と本書にある
しかし、加瀬が目指した(前例が無かったはずの)こうしたコンセプトでのバンド結成が渡辺プロ内で通ったのも、当初から会社が積極的に支持したということではなく、加瀬の主に作曲能力を会社側が評価していたためと思われる。 やってみる意義は(多少は)あると思われるので一応やらせるが、それが(おそらくは)ダメでも加瀬が(作曲家として会社に)残ればいい、というところだったのではないか。
(なお、渡辺プロ系の作曲家で、すでに日本ポップスの大御所的存在となっていた宮川泰との作曲方法に関するエピソードは本書にもあるが、宮川は加瀬の作曲能力を相当に買っていたということであるし、ブルー・ジーンズの1965年夏のシングル「ユア・ベイビー」のライナーでは、いわゆる師弟関係は実際には無いはずなのに「宮川の一番弟子」と書かれている程なので、渡辺プロは加瀬の作曲能力に関しては、まだ大きく目立つ成果は上げていなかった段階から「宮川のお墨付き」と捉えていたはず。 もちろん、その後に加瀬の作った曲の数々が会社全体に多大な貢献をしたことを考えると、宮川と渡辺プロの慧眼には唸らされる)
ところが、このバンド結成のコンセプトこそは正に時代を先取りしていた。 加瀬は、世の中の流れを読むというプロデューサー的な感覚も鋭かったのだ。

一方、レコード会社はレコード会社で、加瀬作曲のブルー・ジーンズ時代のリメイク作品「ユア・ベイビー」を、実績があるからデビュー・シングルのA面にするつもりだったというくだりにも、良くも悪くも過去の実績こそが優先するという旧来のセンスが業界には根強いことが、うかがわれるが(ま、かのビートルズだってスンナリとデビューできた訳ではなかったのですが)、とにかく加瀬は、これこそは何が何でも譲れない最重要ポイントとして徹底的に抵抗、結局「想い出の渚」がA面になる。 で、その結果は、誰もが知っている通り。
このページの最初に戻る(ところで、グループ・サウンズの起源はスパイダースの「フリフリ」かブルー・コメッツの「青い瞳」というのが定説ですが、それはヴォーカル&インストゥルメンタル・グループとしての視点であって、我がGSのルーツとしては、この「想い出の渚」を挙げるべきではないかと、この項を書いている内に筆者には明確に思われて来ているのです)
加瀬邦彦&ワイルド・ワンズという印象の最初のジャケット 加瀬の希望通りのはずの差し換えジャケット 差し換えられた方はWジャケット仕様、こちらがもう1つの面

また、「想い出の渚」の最初のジャケットを加瀬は気に入らず、ヒット後に変更された件が本書でも触れられているが、「メンバーの顔写真の表情がよくない」ということもあったにしても、それよりは加瀬が大きく写されている点に根本的な抵抗感があったのではないだろうか。 たびたび引用するビートルズですが、そのレコード・ジャケットの写真では、いずれも4人のメンバーが均等に並列的に写っており、それがローリング・ストーンズやドアーズなんかとは大いに異なる特徴なのだ(もちろん、以後のワイルド・ワンズのジャケットでも、メンバーのウエイトはほとんど均等だった)。

その「想い出の渚」は11月5日の発売以来、10日間で10万枚を売り上げたらしい。
その数字の真偽はともかく、タイガースにとって大変に重要なのは、渡辺プロがワイルド・ワンズの成功を11月中旬までには確信していただろうことであり、11月15日には すぎやまこういちの命名でタイガースというバンド名が決定しているが、この辺りで、次のトレンドは加瀬が主張したコンセプト通りと読んだ渡辺プロは、タイガースも若者5人のメンバーだけで世に出すことに方針転換したのではないだろうか。
(なお内田は、タイガースがレコード・デビューした直後の1967年春に3か月に渡るヨーロッパ旅行に出掛けているが、その行動はタイガースと別れた「結果」であって、「原因」ではないと思われる)

そして12月1日に「僕のマリー」のレコーディングとなる訳で、この時点では内田裕也&タイガースという線はまったく無くなっていたはずだが、ちょっと気になるのはB面曲「こっちを向いて」の曲調。 これはエレキ・ビート時代以前(ロカビリー/カヴァー・ポップス時代ってことですが)を感じさせるけれども、ひょっとしたら、以前の構想での内田裕也ヴォーカル用に準備されたナンバーだったりして! (「こっちを向いて」に関しては [欄外コラム(1)] も参照/今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで

ちなみに、それ以前には加瀬とのニュー・グループを考えないでもなかったらしい内田だが、加瀬が若いメンバーでワイルド・ワンズを結成して活動を始めた1966年夏以降、自分も独自の嗅覚で若いバンドを探していたのかもしれない。 ちょうどその時期にタイガースの前身ファニーズとの出会いがあり、紆余曲折はあったにしても、加瀬の動向を横目で見ながら内田裕也&タイガースの構想が進行したことは大いに考えられる。 なお内田は、その後1967年秋に「内田裕也&ザ・フラワーズ」を結成するが、レコード・デビューはGSムーヴメントが下火になった1969年になってからと遅れた。 また、当初のデビュー曲としては加瀬邦彦作曲の「愛するアニタ」が予定され、レコーディングも済んでいたことが、本書にも書かれている。 しかし同曲は、それ以前にタイガースも録音していたが、いずれもオクラ入り、結局1968年にワイルド・ワンズがシングルとして発売することになった。 この件も本書で触れられているが、後述

さらに、本書に記載されている当時の給料に注目すれば、レコード・デビューも未定だった夏の時点でワイルド・ワンズの各メンバーは1人35,000円だったという。 まだほとんど実績が無かったのに、加瀬は80,000円 (今の物価水準では約8倍見当か。 すると、20才にならないメンバーでも30万円弱、加瀬は以前のブルー・ジーンズ時代の3倍!の60万円以上となる)。
この金額には渡辺プロの期待もさることながら、明らかな勝算が見えて来ていたことが、うかがえるのではないだろうか。

しかも、記憶か記述が正確ならば、それから2〜3か月後にタイガースのメンバーが、これもレコード・デビュー前にもらったという給料が60,000円!(こちらはタイガースの森本太郎の日記による数字だが、メンバー5人で折半する金額ではないはず)
そうだとしたら、すでにこの時点になると、先達のブルー・コメッツやスパイダースとは実は大きく異なる、新しいヴォーカル&インストゥルメンタル・グループ(もちろん、それこそがシーンを牽引して後に全体が「グループ・サウンズ」という新しい名称と概念で括られることになるのだが)に関する渡辺プロの読みは確信に変わっていたとしか思えない。
このページの最初に戻るさて、以前から [欄外コラム(8)](今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで)で取り上げていた、大きな、そして重要な疑問、加瀬作曲の「シー・シー・シー」の件です。

本書によれば、朝帰りした日の午前5時過ぎに、タイガースのマネージャーから電話があり、「<花の首飾り>の次のシングル盤のレコーディングをしたのですが、もうひとつインパクトがなくて、昨晩の会議で別の曲を加瀬さんに作ってもらおうということになったのでお願いします」と頼まれたとのことだが、なんと その日の午前10時から録音するスケジュールだという。
だが、さっそく加瀬は作曲を始め、8時までにはメロディーが出来上がり、簡単なアレンジもしてスタジオに向かう。 バックの演奏は午後2時頃に録音が終わり、その間に安井かずみが作詩。 コーラスには加瀬も加わって、夕方6時にはすべてが終了。 「曲の発注を受けてからレコーディング終了まで十三時間。<シー・シー・シー>はその一か月後に、発売一週目でオリコン一位になり、その後七週間に渡ってトップの座を占め続けた」と加瀬は締め括る。

こんな突貫工事で出来上がった曲だったとは! しかし、そんな勢いが曲調にも表われ、あのようなビート・ナンバーの傑作に仕上がったのかもしれない。
(ちなみに、ビートルズの『ホワイト・アルバム』に収録されているポール・マッカートニー作曲の傑作ロックン・ロール「バースデイ」も、曲作りから録音まで1968年9月18日の1日で仕上げられたとのことだが、やはりアップ・テンポの熱血ロック・ナンバーは推敲を重ねるのではなく、勢いで書かれるべきなのかも)

当時のシングルにはクレジットされていなかったが、やはりアレンジも加瀬自身によるもので、スタジオでメンバー(またはセッション・ミュージシャン?)と楽器を演奏しながら最終ヴァージョンに仕上げたのだろう。 とすれば、コーラスに加わったとしか記述されていないが、リード・ギターも加瀬の演奏だった可能性は高い。 当然ながら、ストリングスやホーン類は準備できないので、エレキ・バンド本来の楽器編成だけでの演奏になった訳で、それも好ましい結果と思える。
また、本来はA面候補だった「南の島のカーニバル」との類似点が指摘される曲中のブレイクも、(もうひとつインパクトがなかった)「南の島〜」のアイデアを、この「シー・シー・シー」が生かしたということになるだろうか。
逆に、すぎやまこういちは、この曲の録音には一切関わっていなかったことも分かる。 だが…。

おそらく、何らかの事情(緊急事態)で、曲を準備するのに時間が無かったことは事実に違いない。
ところが、タイガース側の資料と付き合わせながら検討してみると、かねてからの疑問は何も解決しないではありませんか。 いや、疑問は増したというべきか。

まず録音日だが、ポリドールの録音日誌によれば、「シー・シー・シー」は1968年5月12日、および 5月23日に録音されている。 それぞれがどのような録音内容だったのかは不明にしても、とにかく 1日ですべて終了とはなっていない。
もっとも、23日の方はコーラス等の入れ直しのような補足的作業だった可能性もあるが、それよりも問題なのは、12日には「シー・シー・シー」だけではなく、(おそらく)「白夜の騎士」と、(ほとんど間違いなく)「南の島のカーニバル」も録音されていることだ。
ただし、この録音日誌は日付が多少あいまいであることが現品を見ると分かるので断言は出来ないのだが、まず「白夜の騎士」の日付欄には 5月11日と12日が並べて記入され、続けて「シー・シー・シー」「南の国のカーニバル」(「南の島のカーニバル」の原題)の順番で書かれており、いずれも日付は12日であることが示されている(「南の国のカーニバル」「シー・シー・シー」の順番ではないところに注目)。

これと本書の記述のつじつまを合わせようとするならば、5月11日に録音した「白夜の騎士」が、もうひとつインパクトがないので、急きょ同日夜から加瀬を追いかけ、出来たてホヤホヤの「シー・シー・シー」を翌12日に 1日掛かりで録音したが、加瀬だけを帰した後で、一応「南の島のカーニバル」も録音した、ということになるだろうか。 そして、突貫作業での粗い部分を整えるため、23日に加瀬には内緒で「シー・シー・シー」を一部再録音した、と。
しかし、実際にもそうなった通りに「白夜の騎士」はもともとB面用の曲のはずであり、あらかじめA面として告知もされていたのは「南の島のカーニバル」の方だった。
しかも、タイガースのシングルは、あらかじめ3曲用意された中から2曲に決定するという形が多かったはずなのだが…。

もっとも、「もうひとつインパクトがない」等は加瀬への依頼のための言い訳だったのだろうから、事実そのままでなくても何の不思議もない。 また、細かい部分の記憶または記述違いということもあるだろう。
(重箱の隅をつつく訳ですが、前に引用した「<シー・シー・シー>はその一か月後に、発売一週目でオリコン一位になり、その後七週間に渡ってトップの座を占め続けた」という部分は、オリコンの資料に即せば、以下のようになる。 「<シー・シー・シー>はその二か月後に、発売三週目でオリコン一位になり、その後四週間に渡ってトップの座を占め続け、その後で千昌夫の「星影のワルツ」に一週間首位を譲ったが、直ぐに返り咲いて、もう二週間、合計で六週間トップの座を占めた」)
このページの最初に戻る で、以下は例によって筆者の勝手な想像です。 [欄外コラム(8)](今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで)の推察の改訂版ということで…。

もちろん本書では触れられていないが、おそらく、曲の依頼を受けた際、タイガースのマネージャーとの話の中では、すぎやまこういちのことが最も大きな問題になったはず。
すぎやまが作曲した「南の島のカーニバル」の出来がイマイチなので、もう1曲書いてもらおうとしたが、すぎやま側は、オレは書かん、この曲には自信がある、もしどうしてもというなら、誰でもいいからレコーディング日までに書かせてみろ!ってな経緯が直前にあったんじゃなかろうか。
タイガースのみならず、GSの曲で初めてのナンバーワン・ヒット「花の首飾り」を書いたすぎやまの曲を次のシングルでは外そうという無理を通すためには、それ以上の無理を上塗りすることが必要だった訳で、とにかく、対抗する曲を完成するまでの時間は極端に無かった。

かといって、渡辺プロ側としては、この条件下では他の作曲(の専門)家に依頼は出来ず、善後策を協議した結果、同じGS仲間であるし、若いし、高給も渡しているからと、無理を言える作曲家・加瀬に白羽の矢を立てた(当然ながら、ワイルド・ワンズ関係者には全社的な緊急事態ということで了解を取ったはず)。
もっとも実際には、これから作曲してくれというのではなく、何か曲のストックがないかということだったろうが、とにかく、その曲が良ければ万々歳、そうでなくても、もともとなのだから。 だが、もしA面になってヒットしても(ま、当時のタイガースならば何でもヒットするに違いなかったが)、あくまで緊急事態なので今回限り、と。
相当ムリヤリな依頼だったとは思うが、加瀬としては、以前に作曲してタイガースが録音したがオクラ入りした「愛するアニタ」(同曲については後述)の借りを返してもらおうというような気持ちもあったのかもしれない(もっとも、渡辺プロ側こそが加瀬に借りを返してもらおうと思ったのかもしれないが)。

音楽的に考えれば、タイガースを担当して来たすぎやまこういちに特に顕著だったGSのストリングス化に対して、初期ビートルズ直系のビート・ナンバー(この時期の直前に発売されていたビートルズのシンプルなロックン・ロール回帰調の最新シングル「レディ・マドンナ」の影響もあったかも)で異議を申し立て得るチャンスだと捉えたというところでしょうか。 タイガースが変われば、GS全体の流れも(加瀬が理想とするビートルズのような方向性に)変わるはず、と。

それ以外にも、知られざる事情が絡んだにしても、とにかく加瀬はこの話に乗った。
そして、曲提供はもちろん、アレンジからギター演奏からコーラスから、すべてに参加して「シー・シー・シー」を 1日で仕上げた。 それが、5月12日のことだったのだろう。
なお、曲中のブレイクは当初からのアレンジというよりも、後のテープ編集作業部分と思われるが、5月23日の再録音時までには(「南の島のカーニバル」を参考にして?)再アレンジされたのかもしれない。
加瀬が参加したのは最初のレコーディングだけと思われるが、2回とも参加していて、それを本書では 1回分に「メガミックス」して記述した可能性も…。

6人いる!もちろん、作詩の安井かずみも事情は先刻ご存知で、ダブル・ミーニングっぽく、内緒の話だから「シー・シー・シー」なんて書いたのでしょう。
ジャケットのデザイナーも、今回のタイガースは実は加瀬も加わった6人編成なんですが、ってことでジャケットにはシルエットも含めて6人登場させたりしたのかなあ、やっぱり。
だが、タイガース自身は、自分達が何も絡まない内に話が勝手に進行してしまった経緯に不信感を覚え、後に同曲を封印する…。
(レコード会社が加瀬の意向を無視してワイルド・ワンズの2枚目のシングルを「小さな倖せ」で押し切ったため、「この曲は次のシングルが発売されるまでの間、テレビやステージで歌ったが、その後のワイルド・ワンズのライブでは、よほどのことがない限りレパートリーに入れなかった」と本書に書かれているが、事情は違うにしても、タイガースの「シー・シー・シー」の扱いと共通するように思われてならない。 もしかしたら、むしろ加瀬本人がジュリーあたりに進言したのかも)

タイガース関係者のタブーだった(としか思えない)「シー・シー・シー」に関して、この機会に加瀬は充分に注意しながら(あるいは、わざと少し間違えたりしながら)触れてみたのかもしれないが、逆に謎はますます深くなったと思われますねえ。
このページの最初に戻る後はポイントだけ。

[欄外コラム(2)](今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで)で取り上げた、ワイルド・ワンズのシングル「夕陽と共に/可愛い恋人」の録音にタイガースのメンバーが参加しているという情報については、本書ではまったく触れられていない。
ただし、ジュリーはプライベートではワイルド・ワンズのメンバーとの付き合いが結構あったことが書かれているので、このワイルド・ワンズのシングルに参加しているタイガースのメンバーとは、他ならぬジュリーだったのかもしれない。

[欄外コラム(3)](今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで)で取り上げた、オクラ入りしたタイガース版「可愛いアニタ」については、まず記述に大きな勘違いがある。
「そもそも<愛するアニタ>は六十七年の夏にタイガースの<シー・シー・シー>の次のシングルとして僕が作曲したものだった」と書かれているが、タイガースが「可愛いアニタ」を録音したのは1967年の7月と合致するにしても、前述のように「シー・シー・シー」の録音は1968年5月。 ワイルド・ワンズの「可愛いアニタ」は、すでに1968年1月に発売されている訳です。

その当人ですら思わず勘違い? してしまったように、まず(何らかの緊急事態で)加瀬に「シー・シー・シー」の依頼があり、それがヒットしたので次のシングルもオファーされ、それで「可愛いアニタ」を作曲したという流れだと実に分かり易いのですが、実際は違う。
特に急ぐ事情も無く、タイガースのシングル・リリースのスケジュールからも外れた時期に、何故か(自分のバンド、ワイルド・ワンズがあるのに)依頼されて初めてタイガースのために「可愛いアニタ」を作曲したがオクラ入り、で、1年近くも経った頃になって突然「シー・シー・シー」を書かされるという経緯。 やはりヘンですよね。

ただし、タイガース版のオクラ入りについては「僕とタイガースが地方公演で東京にいない間に、打ち合わせもなくバックの音が録音されており、それが当初考えていた曲調と全然違うのでいったん没になった」と説明されている。
確かに音楽的にはその通りで、何のための録音だったのかは不明にしても、オクラ入りは的確な判断だったと思われますが、しかし、タイガースがいない時にバックの音が録音された、ってことは、あの演奏はタイガースのメンバーによるものじゃない、と。 一応、これは新事実なのかも。

ちなみに同曲は、結局ワイルド・ワンズがレコード化する前に、今度は内田裕也が新たに結成した「フラワートラベリングバンド」のデビュー曲として録音されたとある。 そうなのだが、もちろんグループ名は間違いで、この時は「ザ・フラワーズ」だった。
(その後、メンバー・チェンジを重ねて、GS後の日本のニューロック期の最重要バンド「フラワー・トラヴェリン・バンド」となったのは1970年以降のこと)
しかし、フラワーズ版の出来は良かったというのに、何故オクラ? 聴いてみたいものですが、未発表のまま。
(それにしても、本書に登場する内田裕也キャラはとりわけ目を引きますが、GS時代の裕也さんにイイことはまるで無いようですねえ)
以上、いくつかの興味深い新事実は明らかにされたにしても、結局、従来の疑問は何も解決しませんでした。
やはり、加瀬氏自身を含めて、まだ現役の人ばかりの話なので、事実をありていに語ることは「暴露」につながるということで、自主規制したということなんでしょうか。
それとも、加瀬氏ですらタイガースに関しての知り得る範囲はこの位ということなのかな(当事者とは意外にそういうものでありますから)。
このページの最初に戻る
ということですが、残念というより、まだまだ今後、考察しがいがあるというべきでしょう。 しかし、もっと資料が欲しい!
その後、2002年2月1日夜、東京・新宿のロフトプラスワンにてサエキけんぞう氏の司会による加瀬氏ゲストのトーク・ショーがあり、筆者も拝聴しましたが、この著書に沿った話とはいえ、ご本人の口から語られるのは、やはり興味深いものがありました。
その折り、タイガースの「シー・シー・シー」や「愛するアニタ」についても触れられましたが、本の内容と何ら変わらない受け答えに終始した感があります。
特に、司会者の質問に答える形でしたが、「シー・シー・シー」のレコーディングでコーラスには参加したがギターは弾かなかったし、演奏もタイガースのメンバーがしていた、ギター・フレーズも自分が教えた通りに加橋かつみが弾いていた、と語られていました。

もっとも、話す側も聴く側も酒を飲んでの気楽な雰囲気とはいえ、公の場ではありますので、著書と異なる内幕が語られるはずは無いでしょうし、もちろん加瀬氏ご本人の発言に敢えて異を唱えるわけではありませんが、筆者の疑問は、タイガースが実際に演奏していたのかどうかということ自体ではありません。

その日初めて提示された曲を、(アレンジャーとしての加瀬の指示があったとはいえ)その場の短い時間のヘッド・アレンジであそこまでノッた演奏が出来るならば、当時のタイガースの演奏力は相当なものだったと確認できるわけですが、それならばタイガースはこの曲と演奏をもっと誇っていいのではないでしょうか。 しかも、チャート1位の大ヒット曲でもあるとなれば、ステージでのビート・ナンバー定番曲として演奏され続ける方が自然でしょう。 ましてや解散コンサートではクライマックスで取り上げられてもいいはずなのですが、15枚のシングルA面で演奏されなかった4曲の内の1曲となっていたことが、実に納得できないのです。
ま、意地悪く考えれば、加瀬の前でのタイガースの演奏と、実際にレコード化された演奏とが異なっている、という可能性も無いことはありませんが。
なお、やはりGSの「演奏」に関しては業界ではタブーであったようで、その一例ですが、最近読んだ『ロック画報』第7号(2002年2月25日発行〜実際には2月10日頃には出回っていました)のインタビューで、成毛滋(GSのフィンガーズにも在籍したギタリスト)が次のように語っているのが目を引きます。
「あの頃グループ・サウンズは200以上あったんですけれど、そのほとんどのレコードを、7、8人で弾いているんです。 どのバンドでも弾いているのは同じ。 ドラムは石川晶さん、田畑貞一さん、ベースは江藤勲さん、ギターは水谷公生か僕が一番多かった。 オルガンはミッキー吉野、柳田ヒロ」
「裏方はギャラが良いんですよ。 演奏料のほかに口止め料が入る。 レコードだけじゃなくて、ライヴもGSは自分で弾けないから、アンプの後ろに隠れて弾かされる。 客入れの前から4時間ぐらいアンプの後ろに隠れていなければならないんで、ギャラは良いんです。 僕も、ステージの袖でカーテンの影に隠れて弾くのをやりました」(いずれも、同誌40ページより)

口止め料込みというところがリアルで、なるほどと思われますが、であるからこそ、業界の仁義というよりは金銭で請け負った仕事上の当然の義務として、今まで語られなかった部分でもあるのでしょう。
今のアーティストならば、仮にレコードのみならずライヴで全面的にテープを使っていたとしても、それだけで致命的な問題になることなど無いでしょうが、とにかく、当時のGSの「演奏」とは実に重要にして重大で根本的な要素と捉えられていたことが、あらためて分かります。

しかし、今やその点を避けようとすることは、日本ポピュラー音楽史のエポック・メイキングであるGSムーヴメントが正当に評価されるためには却って適切ではないと思われるのですが、いかがなものでしょうか。
さらに、そうした内幕に触れることは個人のプライバシーの「暴露」というような悪いニュアンスで捉えられがちな面もありますし、当事者の様々な「権利」も当然に守られる必要はあるにしても、すでに歴史の重要な一部になっているGSムーヴメントを形成した各バンド、特にそれを代表するタイガースとなれば、関係者はもちろん、もはや各メンバーからも独立した「客観的存在」、あるいは受け取る側も含めての「共有文化財産」なのではないでしょうか。
(筆者としては、タイガースのメンバーが実際に演奏していようがいまいが、そのこと自体はどちらでも構わないし、それでタイガースに対する評価が根本的に変わるわけもありませんが、ある曲を誰が演奏していたのかという事実は、まずハッキリ知っておきたいのですね。 それは目的ではなく、タイガースを理解するための手段の1つなのですから)

現在の一例ですが、レコーディングの詳細情報については、英国のビートルズならオフィシャル本『ビートルズ/レコーディング・セッション』(日本版はシンコー・ミュージック刊)等で追究されており、未発表音源も含めたスタジオでの録音においてメンバーが何をどのように演奏したかのみならず、外部から参加したホーンやストリングス類の各ミュージシャン名まで明らかにされていますし(その一部を体験するための音源としてリリースされたのがCD『アンソロジー』シリーズ、のはず)、ロック/ポップス史上の最重要アルバムの1枚である米国のビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』に関しては、最終ミックス以前のセッション音源を数多く公開したCDも編纂されていますが、その添付ブックレットではメンバーが(1曲を除いて)演奏に参加していないことはもちろん、実際の演奏者名と使用楽器が個別に明記されています(このブックレットにバンドの頭脳であるブライアン・ウィルソンが寄せた一文の締め括りのフレーズは、「This album is your album」!)。
言わずもがなですが、それらが明らかにされたからといって、そのアーティストやアルバムの評価が(さらに上がったならともかく)下がったなんて話は聞いたことがありません。

また、米国産ビートルズ(的アイドル)として売り出された、かのモンキーズも、本当は演奏できないとバッシングされていましたが、やはり現在では、実際に演奏していることも多かったと同時に、レコードでは他のミュージシャンが演奏していたことも明確に提示されています。 そして当時、むしろメンバーは自分達以外の演奏者をクレジットするようにレコード会社に主張していたらしい。 その通りだとすれば、アメリカのアイドルの意識も、なかなかなものではありませんか。

…ひるがえって、我がニッポンでは?
このページの最初に戻る
[欄外コラム] の前ページへ 次ページへ
このページは新しいウィンドウで開いているはずですので、[欄外コラム] 以外のページに移る時には(基本的に)このウィンドウを閉じてください
タイガースのINDEXへ ディスコグラフィー入口へ えとせとらレコードのホームページ